2026/09/30
JAM京滋 子ども平和ヒロシマ体験学習感想文
子どもたちの平和に対する思い
JAM京滋「子ども平和ヒロシマ体験学習」は、今年で45回目を迎えた。今回は対象を小学校5・6年生に加えて中学校1年生まで拡大し、組合員の子ども16人と引率者9人が参加した。
子どもたちは、被爆体験の語り部講話や原爆資料館の見学、平和記念式典への参加を通じて、戦争や核兵器の恐ろしさ、そして平和の尊さについて学んでいた。実際に広島の地を訪れ、自らの目で見て、耳で聞き、心で感じたことは、それぞれの胸に深く刻まれている様子だった。
いま私たちが当たり前のように享受している平和は、多くの尊い命の犠牲の上に成り立っている。今回の体験を通じて、子どもたちが何を感じ、何を学んだのか。平和への思いが込められた子どもたちの感想を紹介する。
子どもたちの感想
2日間の広島体験学習
10歳 (ナス鋼帯労働組合)
8月5日、6日に広島へ1泊2日の体験学習に行きました。1日目は、語り部の岡本さんから原爆についての話を聞きました。原爆では、爆風で家や建物が吹き飛ばされたり、熱線や放射線でたくさんの人が被害にあったりしたそうです。岡本さんのお母さんも、原爆が落ちたとき、家がつぶれて周りが真っ暗になったそうです。何が起こったのか分からず、気づいたら避難していたそうです。ぼくは、原爆はとても大きな威力があり、戦争はとてもこわいものだとおもいました。
そのあと、広島平和記念資料館にも行きました。資料館には、原爆で亡くなった人の服や当時使われていた物の展示が多く、ぼくは途中から見られませんでした。でも、80年前にこんなことがあったということは分かりました。
2日目は宮島へ行きました。あげもみじや、もみじまんじゅうアイスなどを食べたりして、おいしかったです。広島焼も食べました。野菜は多かったけれどソースともちもちした生地とたまごはおいしかったです。
この2日間は、楽しかったこともあったけれど、たくさん歩いて疲れたり、家を離れて少しさびしかったりもしました。行く前はドキドキしていました。楽しかったことと大変だったことの両方があったけど、家族とはなれて2日間すごしたことも、自分にとって大きなけいけんになったと思います。
子ども平和ヒロシマに参加して
12歳 (島津労働組合)
私は初めて広島に行きました。学校で学んでいただけでしたが、実際に行くことができて、貴重な体験ができました。広島に着くと、まず語り部さんの講話を聞きました。原爆での被害は爆風、火災、熱線、放射線などの原因があり、たくさんの人が亡くなったそうです。また、生き残った人も急性障害や後障害の白血病やガンなどで苦しみ、今も苦しんでいる人がいるそうです。
その話を聞き、たくさんの人が苦しんだので、核兵器はとても危険でこわい物だと知り、核兵器を世界からなくすことは大切なことだと思いました。
次に、路面電車に乗り、平和記念公園へ向かい資料館を見学しました。路面電車に乗るのは初めてでしたが、日付を削ったカードを見せるので、きれいに削るのが楽しかったです。
平和資料館では、原爆が落ちたしゅん間のムービーを見て、一しゅんで街がぼろぼろになっていたので、すさまじい被害だったということが分かりました。ほかには熱線によって、皮ふがたれさがっている人々の絵や、死のはんてんが出た兵士、背中が焼けた人の写真などを見て、原爆はとても危険なものだということが改めて分かりました。その次にドームなどの見学をして、とてもぼろぼろだったのでこわいなと思いました。
夜ご飯は決めていたお店が見つからず、残り30分の時にドリアの店で食べました。ホテルでは小学生たちに会いに行けて楽しかったです。
次の日の平和記念式典では、特報の新聞をもらい、核廃絶を強く願っていることを知りました。その後、宮島行の船に乗り、宮島で昼食を食べた後、自由時間がありました。船に乗ることはあまりないので、海や潮風を楽しめて良かったです。昼食は、くらわんかの広島焼きを食べました。やわらかくて具がたくさん入っているのでおいしかったです。その後の自由時間では、まず海に行って厳島神社の鳥居の写真をとりました。海がとてもきれいでした。
そして商店街でおみやげ屋に行き、おみやげを買いました。アイスサンドもみじを食べたり、せと内レモンソーダをのんだり、すみっこぐらしのベビーカステラやアイスを食べ歩きしました。アイスサンドもみじは夏にぴったりで、アイス部分もすごくおいしかったです。せと内レモンソーダもレモンがまるごと入っていてスッキリする味で夏にぴったりでした。すみっこぐらしのベビーカステラは、ほっこりする味で、形がこっていたのが良かったです。味もおいしかったです。
宮島にはシカがいて、かわいいですが同じグループの子が紙ぶくろをかじられていたので少しこわかったです。帰りは船の室内に座りました。ゆっくり海をながめられました。
広島駅でおみやげ屋がすごく混んでいましたが、ぼうしのおかげで見つけやすかったです。お金が余っていたのでスタバのフラペチーノをのんで冷たくて甘くておいしかったです。新かんせんでは仲よくなった子たちと絵しりとりをしたり、話したりして楽しかったです。
この2日間で平和のことなど色々なことを学ぶことができました。平和の話など、この2日間のことを色々な人に話したいと思いました。
はじめて広島に行って
10歳 (島津労働組合)
最初は、広島に落とされた原子爆弾のことについて興味はなかった。親にいい経験になるよと言われたのがきっかけだった。せっかく行くのだったら本などで、ある程度知識を深めてから行こうと思い、広島に関する本や原子爆弾に関する本などを読み始めた。それから、本などを読み始めているうちに、だんだんと興味がわいてきて、実際に広島に行くのが楽しみになってきた。
初めて広島に行ったのだが、本などを読んである程度知識を深めていたので、実際に行ってこれは本で読んだことがあるというようなものがたくさんあったので。楽しかったし理解も深まった。でも、本には書いてないようなことも見たり聞いたりして、そうなんだとおどろいたこともあった。
たとえば、原爆の子の像の前にたくさん飾られている千羽鶴は、今までに供えられたすべてが飾られてあるのだと思っていたけど、実際は違って、たまってきたら再生紙にされて卒業証書になるというのがびっくりした。再生紙になっているのは、卒業証書をみたりすることで戦争の悲惨さや平和の大切さを思い出すためだと思った。
また、平和の灯というのが約60年前から燃え続けていて、世界から原子爆弾がなくなるまで消えないというのがおどろいた。原子爆弾の危険さを思い出して原子爆弾をなくそうという想いを忘れさせないためだと思った。
こんなにも戦争で、辺り一面更地のようなことになったのに、たったの100年未満でこんなにも復興出来るのがすごいと思った。現地の人たちの美しい広島を取り戻そうという想いが実ったのだと思った。
語り部さんの話を聞いて、原爆というのは、その瞬間に人を殺すだけで終わるのではなく、生き残った人たちまでも病気で苦しませたり、病気になるかもしれないという恐怖を与えたりするものなのだなということを改めて実感した。
今回広島に行って戦争(原子爆弾)というのは、たくさんの命を奪ったり人を苦しめたりして、いいことなどひとつもないので、もう戦争を二度と起こさないように今回見たり聞いたりしたことをたくさんの人に伝えていきたい。
「2026子ども平和ヒロシマ」
11歳 (島津労働組合)
わたしは、今回、初めて広島に行きました。平和学習のいっかんで語り部の岡本忠さんの話を聞いたり、平和資料館や平和公園内の記念碑、ドーム、祈念像を見学し、詳しい説明を聞いたりしました。
岡本忠さんは、(当時)生後わずか1才5ヶ月で、お父さんを朝見送ってお母さんとねていた時に、ひ害にあったそうです。
アメリカのB29(エノラ・ゲイ)が午前8時15分に島病院の上空600mで爆発させたのが原爆でした。
原爆によるひ害は、爆風、熱線、放射線と大きくわけて3つあり、全てがとても恐ろしいものです。広島には当時約35万人が住んでいて、原爆後、その年の年末までに約14万人が亡くなりました。亡くなった原因として爆風に飛ばされたり、飛んできた破へんがささったり、家に押しつぶされたりしたことでした。
また、朝ご飯の時間だったことで、多くの家が火を使っていて、その火がもえうつり、たくさんの家が火事になってしまったそうです。街は火の海となり、暑さとやけどで水を求めて、水を飲んで死んでしまう人がたくさんいました。爆発した後も放射線による病気にかかって、長い間苦しい思いをした人、そして今でも苦しんでいる人がいます。
今回「子ども平和ヒロシマ」に参加できたことで、原爆について詳しいことを初めて学びました。原爆はわたしたちが想像できないほどのおそろしいものだったことも知りました。
たったひとつの爆だんによって、たくさんの広島の方々がひ害を受けたことを知りました。それを知って「戦争は、絶対やってはいけない!今の平和をずっと大切に守っていきたい!」と改めて思いました。
広島県に行って心に残ったこと
10歳 (島津労働組合)
広島県に行って心に残ったことは、岡本さんが話してくださった原爆の話です。岡本さんは、小さいころに原爆が落とされたのであまり記おくがないそうです。そのため、小学生ぐらいの時に実際に体験した人からの話をうけついで、私たちに語り部として話してくださいました。
1945年8月6日午前8時15分に、ひとつの爆弾(原爆)が落ちてきました。その爆弾は平和公園の北側にある相生橋という橋に落とされ、島病院の上空600mで爆発しました。そのあと、爆風、熱線、放射線で多くの人が命を落としてしまいました。
外にいる人は、熱線をうけ、爆風で飛んできたガラスや建物の破へんがつきささってしまいました。建物の中にいた人は、建物がこわれて、おしつぶされてしまい動けなくなりました。助けを求めても周りの人も同じような状況なので助けられず、広島県内の約35万人いたその内約14万人の人が年末までに死亡してしまいました。広島県の人たちは、何も悪くないのに爆風、熱線、放射線でなくなってとてもかわいそうだなと思いました。
他に心に残ったことは、宮島で大鳥居を見たことです。大鳥居は、海にうかんでいるみたいでびっくりしました。宮島ではたくさんの鹿がおり、思った以上に角が大きくてびっくりしました。
戦争をしている国は今でもあるけれど、戦争をしても良いことは何もないと思いました。
平和学習ヒロシマ
11歳 (砂崎製作所労働組合)
私は、広島に行く前、知らない人ばかりで友達ができるか不安だったけど部屋で仲良くなれたので安心しました。まず、被爆体験者の岡本さんのお話を聞きました。岡本さんは、1才5ヵ月のとき被爆したそうです。お話を聞いて、被爆78年後に原爆しょうが、発しょうしたことにおどろきました。
次に、路面電車に乗って平和記念公園に向かいました。路面電車は、電車とは見る位置がちがったり赤信号で止まったりして面白かったです。
平和資料館は、写真や絵、実物や説明があって分かりやすかったです。佐々木禎子さんが入院中ずっと、晴れすがたの時、はいていたげたをはいているのを知って大切にしていたことが分かりました。
次は、記念碑、ドーム、祈念像に行きました。韓国人原爆犠牲者慰霊碑の下のカメは韓国の方を向いていることを初めて知りました。爆心地の近くで、地下室にいて生きのびた人がいることを知っておどろきました。
次の日、平和記念式典に参加しました。高市首相が来ていましたが、すがたはみえませんでした。退場する時、車のまわりに白バイがたくさんいました。その後、フェリーに乗って宮島に行きました。フェリーは屋外だったけど潮風で気持ち良かったです。
宮島には鹿がいて、札には食べ物をあげないでと書いてあったけど、鹿の方が食べ物でも違う物でも取っていました。もみじ饅頭づくりが時間がおくれているから中止になってしまったのが悲しかったです。でも、全体的に友達と仲良くなれたので、とても楽しかったです。来年もまた行きたいです。
2026年子ども平和ヒロシマ体験感想
11歳 (ジーエス・ユアサ労働組合)
私が子ども平和ヒロシマに応募したきっかけは、6年生の社会の教科書に原爆が落とされた直後の広島のようすを映した写真に原爆ドームが映っており、教科書の写真や文字だけではわからない戦争の悲惨さをこの目で見て感じたいと思ったからです。
実際に原爆ドームや、平和資料館で被爆者の衣服、弁当箱、時計、日用品などの遺品を見ると、自分が想像していた以上に目をつぶりたくなるほど悲さんな状況がそこにはありました。現在もロシアとウクライナ、イランとイスラエルが戦争状態にあり、この悲さんな状況が、今も世界のどこかで起きていると思うと、とても悲しい気持ちになった一方、現在の日本は、戦争とは無縁で自分の置かれた状況がいかに幸せであるかを実感しました。
今回、原爆ドームや平和資料館で戦争や原爆について自分で学ぶだけでなく、被爆者の1人である岡本忠さんから、貴重な体験を聞く機会をいただきました。被爆直後は水を求めて川や井戸に人が殺到し、水を口にした瞬間亡くなった人、水にありつけず亡くなった人、その後も放射能たくさんいたこと、また、食べ物も配給がごくわずかで飢えに苦しみ、生きることに精一杯であることを教えていただきました。
物であふれかえっている現在では想像もできない状況で、食べ物の好き嫌いなんてぜいたくなことを言っている自分は考え方を変えないといけないと感じました。
調べたところ、被爆された方で現在も生存されている方の多くが80代以上と高齢化が進んでいるとのことです。
被爆者の貴重な生の声を直接聞けたからには、私がその言葉から感じた戦争の恐ろしさや、自分たちがどれだけ恵まれた環境であるかを友達や同じクラスの人に伝えたいと思います。貴重な経験をさせていただきありがとうございました。
子ども平和ヒロシマ体験学習
10歳 (ジーエス・ユアサ労働組合)
私が子ども平和ヒロシマに行って感じたことは、原爆が泣きそうなくらい怖いことだと言うことです。平和資料館や原爆ドームを見て、私は怖いと感じました。理由は、原爆時の写真を見るという経験がなかったので初めて見て怖いと思いました。
私は、原爆を体験したことがないけど、体験したことがあるたくさんの人は私よりも怖い思いをしたと考えました。写真や絵を見るだけでも怖いのに、被爆したことを考えると自分の予想をはるかに上回る怖さがあると思いました。
しかも、放射線をあびて、肌にぶつぶつがたくさんできたり、がんになったりと原爆が終わって安心している時に病気にかかってしまうと考えると、ずっと気を抜けないし病気になる怖さもあると思いました。さらに、体中が燃えてしまい皮膚が垂れ下がってしまうと考えると本当に怖いと感じました。
岡本忠さんの話を聞いて、爆発で橋が持ち上がってしまたり、原爆前の町が焼け野原になってしまったということを改めて考えると、とても大きい爆弾だったと言うことが分かったし、被爆した人は、いつどこで爆弾が落ちるかわからないから、突然のことにとてもびっくりしたと思いました。
私は、子ども平和ヒロシマに行って、たくさんのことを勉強することができたと思うし、貴重な体験ができたと思いました。岡本忠さんが言っていた通り、岡本忠さんから貰ったバトンをしっかりもらって、友達や兄弟に話すことができたらいいと思います。
原爆のことについて
10歳 (三和研磨工業労働組合)
原爆の怖さを知ったのは、8月5日~8月6日の2日間の事でした。原爆が落ちた時、亡くなられた方の気もち、家族を亡くされたかたの気もちをもって、今、がんばっていきているのです。
今から本題に入りましょう。原爆が落ちたのは今から81年前、原爆が落ちたら、放射線、熱線、爆風。家がくずれおちたり、「相生橋」という橋がひっくりかえったりして、熱線をあびると3000度から4000度の超高熱で人の皮ふがはがれおち、誰が誰なのか、まったく分からなかったです。爆風で人が遠くにふきとばされ死んだ人もいました。建物のしたじきになり、あっ死した人もいました。原爆は半径2kmです。アメリカ軍は最初、「島病院」の上空、約600mにB29という原爆を落としました。
この話をしてくれた「岡本忠」さんはこの時、1さい5ヶ月でした。今は82さいです。B29は東京、名古屋、大阪、神戸にもこうげきをしていました。「広島ゆうびんきょくしょくいんじゅんしょくひ」というところに49人が働いていて、1945年8月6日午前8時15分に、原爆が落とされました。その時、1人の男の人が、ちかしつにわすれものをしてとりにいった時に原爆が落ちたのです。
平和記念館にいくと、切ないことがいっぱいてんじしていました。血の付いた服やぼうしや骨がいっぱいてんじしてありました。小屋生活と服が足りない、体の傷のなやみ、体の傷でなくなってしまったかたがたもいます。
原爆の事のおそろしさというものが、この平和記念式典で、原爆というやっかいなものがあるせいで、こういうせんそうがはじまってしまうんです。原しりょくはつでんしょみたいに、核を良い生活でつかいたいです。
子ども平和ヒロシマ体験学習
12歳 (日進製作所労働組合)
ぼくは、広島平和学習を通して色々なことを学び考えました。特に原子爆弾のおそろしさです。原子爆弾は、1945年アメリカの戦闘機B29が広島市めがけて落とし、上空約600メートルで爆発しました。爆発後、爆風、熱線、放射線により、家がぺちゃんこになったり、全身が大やけどになり、顔を見てもだれか分からないくらい、ひふがただれ落ちたり、白血病やガンになったりなど、たった一弾により1945年末までに被爆者約35万人中4割が亡くなったというおそろしさを学びました。
また、「語り部」の岡本忠さんの話で、爆発後は地面は約3000度から4000度になり、約3キロはなれた所でも、やけどをして熱くて水を飲んだり、水を求めて川に入った人はすぐに死に、川にはたくさんの死体がうかび、流れにより、海と川を行き来していたということを話を聞いてもあまりにも現実ばなれしていたので想像すらできませんでした。
また、放射線により、急性障害と言って1945年末までに亡くなる人もいました。それに対して後障害もあり、主に白血病やガンがはやりました。白血病は2、3年ぐらいたったころに発生しはじめ、7、8年後ぐらいに頂点になりました。一方、ガンは、せんぷく期間が長く5~10年後から増加しはじめました。
印象に残ったことは、何も関係のない人が、無条件に殺されていくことです。まだその人は、したかったことがあるかもしれないのに殺されるような悲劇は二度と起こらないでほしいと思いました。
だからこそ、ぼくは、広島平和学習で学んだことを日々の生活にいかし、これからの世代に原子爆弾のおそろしさや、戦争をもう二度と起こしてはいけないことを伝えていきたいと思いました。
「子ども平和ヒロシマ体験学習」に参加して
11歳 (日進製作所労働組合)
この体験で思い出に残ったことは、広島の原爆のこわさです。最初は、原爆のおそろしさをあまり知らなかったけど、資料館や岡本さんのお話を聞いて、熱風、熱線、放射線で色々な人の皮ふがむけたり、何年後かにガンになったりしてしまうということ知って、とてもこわいなぁと思いました。
他にも思い出に残ったことは、宮島に行ったことです。宮島では、色々な買い物をしたことや食べ物を食べたことです。買い物は、おいしかったもみじまんじゅうを家族の分と、いとこの分に買って帰りました。
他にも、自分のために有名なしゃもじを買いました。そして、いとこに、しゃもじのキーホルダーを買いました。食べ物は、広島おこのみやきがとてもおいしくてすぐ食べてしまいました。食べ歩きではレモンスカッシュを飲みながら食べたいものを食べに行きました。
そして、食べてみたかった、もみじまんじゅうをあげた、あげもみじを食べました。色々な味があったけど、そのお店で一番人気のあんこの入ったものを食べました。食べてみるとサーターアンダギーの味にとても似ていました。熱々だったのでとてもおいしかったです。
また、印象に残ったことは、4人で部屋でねたことです。友達といっしょに部屋で遊んだことが楽しかったです。このように、この体験は色々な思い出が作れたのでとてもよかったです。
子ども平和ヒロシマ
10歳 (日進製作所労働組合)
ぼくが広島に行こうと思ったきっかけは、2つあって1つ目は広島の事を知りたかったからで、2つ目は友だちを作りたかったからです。
そして、広島に行って体験したことや思ったことは、語り部さんの話を聞いている最中に「どういう理由で戦争が起きたのか」と思いました。それに原ばくドームを近くで見たときにも「原ばくドームは、なぜ原ばくを落とされた時に、全てがこわれるんじゃなくて一部だけこわれ、その他の部分はこわれなかったのか」「どうして原ばくは広島に落とされたのか」などのぎ問がわいてきました。
他にも広島でいろいろな体験をしました。宮島をみんなと一緒に回って広島焼を食べたり、いろいろなものを食べながらチームの4人で歩いたり、ソフトクリームを食べていたら鹿に追いかけられたりして、たった2日間だったけどたくさんの友だちができました。
広島から帰ってくるときも、新幹線や電車の中で友だちと話したり、一緒におやつを食べて帰ってきました。それに、家族で旅行に行ったときとはちがって「楽しかった」だけで終わるんじゃなくて「原ばくのことが知れてよかった」など、普通の旅行とは、ちがった気持ちになったし、もっと知りたいことも出てきたから広島に行けて良かったと思いました。
このように、ぼくが経験したことを家族や親戚のみんなに伝えて、もっとたくさんの人が「原ばくをなくす」という取り組みに参加してくれたら良いと思いました。
広島で学んだ平和の大切さ
10歳 (日進ProSOL労働組合)
8月5日から6日にJAM京滋の「子ども平和ヒロシマ」に参加しました。8月5日の朝、峰山駅に5時30分に集合して電車で京都駅へ行きました。京都駅でみんなと合流して、のぞみに乗って広島へ向かいました。
広島に着いてから、語り部の岡本忠さんのお話を聞きました。岡本さんは、原爆が落ちたとき、まだ1歳5か月で当時のことは覚えていないそうです。でも、広島で起きたことを伝える「伝承者」として活動されていて、たくさんの人に平和の大切さを伝えていると聞きました。
私は、覚えていないほど小さい時に被爆したのに、今も広島のことを伝え続けている岡本さんの姿にとても心を動かされました。
そのあと、路面電車に乗って平和記念公園へ行きました。平和資料館では、原爆でこわれたものや当時の写真がたくさん展示されていて胸がぎゅっとなるような気持ちになりました。公園の中では、被団協の方に説明をしてもらいながら、原爆ドームや記念碑、祈念像を見て回りました。みんなで作った千羽鶴をかけたときは平和への思いが届くといいなと思いました。
見学が終わったあと、広島駅の近くで、私たちのグループはマクドで夜ごはんを食べました。みんなで食べると楽しくて少しほっとしました。ホテルに着いてからはお風呂に入り、夜はみんなでワイワイ話して、とても楽しい時間でした。
2日目は、ホテルで朝ごはんを食べて平和記念式典に参加しました。高市首相を遠くから見ることができてうれしかったです。そのあと、路面電車と船で宮島へ行きました。お昼は、広島焼を食べてグループごとに宮島を探索しました。時間がなくて、もみじ饅頭づくりはできなかったけれど、お土産にもみじ饅頭をもらえてうれしかったです。探索の途中で、うしろから近づいてきたシカにお土産袋食べられてしまい、とてもびっくりして泣いてしましました。でも今思うとそれも思い出のひとつになりました。
広島駅に戻ってお土産を買い、またのぞみに乗って京都駅へ向かいました。そのあと3時間以上かけて峰山駅に戻りました。
長かったけれど、広島でたくさんのことを学び、楽しいこともいっぱいあった2日間でした。今回の体験で、戦争のこわさや平和の大切さを強く感じました。これからも平和な世界になるように、自分にできることを考えていきたいです。
平和学習について
12歳 (日進ProSOL労働組合)
今回は、子ども平和ヒロシマに参加させていただきありがとうございます。
語り部さんの話を聞きに行きました。語り部さんは、当時1、2歳ほどで何も覚えていなくて、体験した人から聞いた話を説明していただきました。
爆撃の被害で東京、名古屋、大阪、神戸などの主催都市が焼けてしまったそうです。広島は、原子爆弾が落ちるまでに、敵の飛行機が上空を飛んで、どこにどう爆弾を落とすか検討していたらしいです。そして原子爆弾は上空600メートルから爆弾を投下して、当時広島にいた35万人の内、約14万人が、その年の年末までに亡くなられました。爆風で飛んでしまった瓦礫などに、押しつぶされてしまったり、風で飛ばされてしまうことがあったそうです。
広島の相生橋の歩道も、爆風でうち上げられたりするほどの爆風だったそうです。爆心地から半径2キロメートル以内は全焼。原因が熱線や、その時間帯が朝食を作るため、火を扱っている時間帯だった事もあり火災が広がったそうです。
原子爆弾の爆発の瞬間では、爆風、熱線、放射線が放たれます。熱線は3000度であたってしまうと衣服は引き裂け、皮膚は垂れ下がるほどで、その状態で水を飲んだ人が死んでしまうのを見て、水を与えてはいけない、死んでしまう、そう言われ、皆は水を求められてもあげる事が出来ませんでした。水を求められても、あげると死んでしまう、あげなくても死んでしまう、それならせめて、水を飲ませてあげたほうが良かったと後悔する人がいたそうです。
あのたったひとつの爆弾で、あれほどの被害をもたらしたことにとても驚きました。話の最後に、原爆症という話が出てきて、生きている限り残る症状で、その症状を抱えて生きるのがどれだけ辛いか、とても心苦しくなりました。実際にその現場に訪れてみると話だけでは分からないことが分かりました。
翌日、原爆ドームに見学へ行きました。真正面から見た時、右側の破損が多かったです。その理由は、右側の上空で爆発した事で被害が大きかった事が分かりました。
平和資料館では、原爆当時の写真や被爆体験をした人の日常記録がたくさんありました。写真を見ているだけでも心苦しくなりました。私の中では、展示物だけでもすごい迫力を感じました。あのひとつの爆弾だけで、広島一体に、大きな被害をもたらしたその破壊力に驚きました。爆弾の爆風で、せり上がった橋、爆風でへこんだ鉄の扉、色々なものを見ましたが、どの物も大きな衝撃が残っていました。
その次に行ったのが、平和公園です。平和公園の記念碑の見学にも行きました。
特に印象に残っていたのが、爆発から残っている当時の建物の外見を残し、修復をして残している建物がありました。その中には、地下の部屋があって、天井には黒い炭のようなものがありました。部屋には食事をするため、調理した時に出る煙などで色がついたものだと言われていて、長い間、地下で生活していたことが分かりました。私には、たえがたい生活で出来ないと思いました。
平和式典では、高市首相や地元小学生の代表多くの方々の話を聞きました。遠くてあまりはっきりと聞こえないところもあったけど、もう戦争はやってはいけない、おこしてはいけない事だという事を感じました。
私は子ども平和ヒロシマに参加して、原爆について詳しく知ることが出来、これからどう過ごしていけばいいかを考える良い機会になりました。そして、初めての体験が出来てとても勉強になりました。この体験をずっと心に残していきたいと思います。
「8月6日に起きたこと」
10歳 (大宮日進労働組合)
日本では1945年から、ばくげき機を受け始めていました。そのこうげきで、焼けのはらになっていたことを知りました。そこで、広島県では、もえ広がりにくい家に作り変える作業をしました。その作業を8月6日も続けていたところ、たったひとつの原子ばくだんが落とされました。
その場所は、島病院の上空600mに落とされ、ばくはつしました。上空600mの理由は、広島のほぼ全体に、えいきょうがでるからと知りました。
ばくはつのしゅんかんには、「ばく風」「熱線」「放しゃ線」で市街地のほぼ全いきをこわしてしまいました。この時、広島県にいた人は約35万人、年末に亡くなった人は約14万人です。家などが、ばく風でこわれ家の中の物で広島のほとんどが火事になってしまいました。
熱線を直接うけてしまった人々は、衣るいが引きさけ、皮ふがたれさがってしまいました。このじょうたいで生きていた人は、水を求めて、水を浴びたり飲んだりしてしまった方は亡くなってしまいました。
ほうしゃ線をうけてしまうと急せいしょうがい、こうしょうがいが、おきてしまうことを知りました。
また、元気な人も亡くなってしまったり、はんてんがでたら、もうすぐ亡くなってしまうという合図だと知りました。
ぼくは、ばくげき機や原子ばくだん、戦争をなくし平和になってほしいと思っています。
子ども平和ヒロシマ体験学習
10歳 (大宮日進労働組合)
私は、8月5日から1泊2日でJAM京滋「2026子ども平和ヒロシマ」に参加しました。
丹後から行くメンバーは、5時30分に峰山駅に集合して、6時過ぎに電車に乗り体験学習が始まりました。初めましての人たちで、緊張していました。京都駅からは、新幹線に乗り広島まで向かいました。
広島に着き、講話会場のエールエール館で「語り部」の岡本忠さんの講話を聞きました。1945年8月6日午前8時15分に投下された原子爆弾のことや、被害についてのお話を聞かせてもらいました。たくさんの人が亡くなり、たくさんの人が原爆症に悩まされていたことを学びました。岡本さんは、1歳の時に体験されたので記憶には無い為、記憶に残っている方々のお話を受け継いでいると知りました。
岡本さんのお話が終わると、初めての路面電車に乗り、平和記念館公園へ向かいました。まず、平和資料館を見学しました。資料館では、原爆で変形した道具やその時の服などが展示されていて、原爆にあった人の日記も展示されていました。資料館を見学し、私がその時生きていたら怖いだけでなく恐怖でおびえているのだろうと思いました。
資料館の見学が終わると、平和公園内の記念碑や原爆ドーム、原爆の子の像を見学し、折っていった折鶴をみんなで持っていきました。折鶴は1年間で届けられる量は10トンになることも教えてもらいました。
原爆の子の像は、佐々木禎子さんという方が、モデルになっていることを知りました。理由は、禎子さんは2歳の時に広島で被爆し10年後白血病のため亡くなったことを知り、死後、同級生の呼びかけなどで、原爆の子の像が作られたことも知れました。
路面電車に乗り、広島駅へ行きグループでご飯を食べ、ホテルへ行き1日目が終わりました。
2日目は、8時ごろにホテルを出て、広島駅に荷物を預け、平和記念式典に参加しました。
平和記念式典は、たくさんの人でした。私たちが居た場所は少し離れていて遠くでした。時間があまりありませんでした。
式典の後は、路面電車とフェリーに乗り宮島まで行きました。もみじ饅頭を作る予定が時間がなくて作れませんでした。昼食に広島焼を食べて宮島探索をしました。宮島を探索の時は、グループごとで探索をしました。私のグループは、世界遺産の「嚴島神社」を見に行きました。写真では見たことはありましたが、自分の目で初めて見て、神社が海の中にあるのがとても不思議に感じました。鹿がたくさんいて鞄を食べられかけたのでビックリしました。探索が終わると、みんなと合流したので、フェリーと路面電車に乗り広島駅へ戻りました。
広島駅では、出発時刻までは自由時間だったので、お土産などを買い、預けていた荷物を取りにいきました。新幹線に乗り京都駅まで戻り、京都駅からは電車で与謝野駅まで帰りました。
1人で参加することに対して、申し込んでから当日まで不安でしたが参加することができて良かったと思います。その理由は、友達ができ、原爆のことを耳で聞いて学べ、目で見て学べたこと、そして、初めての新幹線、路面電車に乗ることができ、とてもいい思い出となりました。同行してくださった引率者の方々、送り出し、迎えをしてくれた親にありがとうの気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。